その他闘病記 その後 次々と病に
A chronicle of his struggle with leukemia After that, he fell ill one after another
2011年脳梗塞 1月
2010年に白血病闘病記を終了させたあと、2012年脳梗塞(入院1ヶ月)、2013年皮膚癌(入院2週間)、2013年舌癌(入院3ヶ月)、2022年心筋梗塞(入院1ヶ月)と病が続きました。
よく生きてているなと不思議なほどです。
脳梗塞の話に入る前に当時の状況 大震災のこと
2008年白血病の再々発により4月に再々入院。抗がん剤や放射線治療後6月に臍帯血(さいたいけつ)移植を受け、その後の免疫抑制などの影響もあってか何を口にしても砂のように。移植自体は2種混合移植で無事生着し、完全に移植した造血幹細胞に置き換わっていたのですが口から食べることができずその後も長く栄養は点滴でいれる日々が続きました。しかし免疫抑制をやめると嘘みたいに食べられるようになり2週間ほどで退院したのがその年の12月。ゆっくりと療養期間を過ごし、2010年7月から仕事を再開。同年9月から宮城県宮戸島月浜地区に伝わる小正月行事「えんずのわり」の撮影で翌2011年2月末まで月イチペースで通って撮影していました。そしてそのわずか2週間後の3月11日に東日本大震災が発生。半年ほど通っていた月浜地区も津波で高台の数件を残して壊滅しました。
当初は情報がなく宮戸島がどうなったかわからず不安でした。お世話になった方々がどうなったのか・・・数日して宮戸島に限ってのことですが人的な被害は奇跡的になかったということがわかりました。更に本土と島を結ぶ橋が崩落してしまい陸路で島に渡ることができないということもわかりました。しかし2週間ほどして自衛隊が仮設の橋を作り渡れるようになったことを知り「えんずのわり」の監督たちとわずかながらの支援物資を載せて島へ向かうことに。道中の東北自動車道は開通はしていましたが、若干ハンドルを取られるほど路面が歪んでいて時々大きな段差も出来、その衝撃で何度か車の腹を打つような状況です。宮城に入り、仙台から宮戸へ向かう自動車道の海側は津波でどこまでも平らな地面が剥き出しの状態。高速を降り、宮戸島の入り口に広がる野蒜(のびる)地区には撮影中何度も食事に訪れた美味しい食堂があったのですが跡形もありません。それどころかあんなにあった住宅や小さいですが工場なども無くなっていました。かろうじて建っている住宅も数件ありましたが窓は破壊され家の中には何もありません。駅も建物は残っていましたがホームも線路も瓦礫で通れない。空襲の後・・・もちろん戦争体験はありませんが見てきた映像などから想起したのだろうと思います。この地区は避難所の体育館も津波に襲われ最終的に地区全体で500人以上の犠牲が出てしまいました。あらためて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。
仮設の橋を慎重に渡り月浜へ。そこには想像を絶する光景が広がっていました。数週間前まで家が肩を寄せ合うように立ち並んでいた月浜地区は瓦礫の原になっていました。しばらく呆然としていたことを覚えています。
この時は仕事としてではなく、カメラマン一個人として記録する必要があると思い動画の撮影を始めましたがその変わりように胸が苦しくなる一方でした。私たちが集落で数ヶ月に渡り撮影していたことは集落の方々はほとんど知られていましたが最初人にカメラを向けることができませんでした。家も仕事も何もかも失った人にどう接すればよいか躊躇してしまったためです。ですがやはり災害と人は切り離せないので恐る恐るお願いして撮影させていただきました。その後島の避難所になっている小学校へ。体育館、教室は避難された方々であふれていました。ここで支援物資を渡す。おそらくフレッシュなものは口に出来ていないのではないだろうかと出発前に近所のスーパーの店長さんに事情を話して「デコポン」を2箱調達。早速切り分けられて被災者の方々に配られ、切り分けていたいた方が「こういうの食べたかったんだよね」と話しているのを聞いて少し安堵した。校庭には自衛隊の車両が数台。ヘリの離発着もされていました。ちょうどこの日自衛隊設置のお風呂が開設され、安心したようにお風呂に向かう人々の表情が印象的でした。月浜に一泊しましたが泊めていただいた民宿もお風呂を沸かすことが出来ない状態でした。
4月9日 土曜日
宮戸から戻り、月曜日にいつもの白血病の検診を受けた週の土曜日の朝・・・
# ここから病院で意識を取り戻す間のことは後から聞いた話です。
父によると、いつまでも起きてこない私を心配し2階の部屋に来ると私が問いかけには答えていたそうです。「大丈夫、大丈夫」と。父もそう答えるので判断に迷ったようで結局離れて暮らす兄に連絡、兄が来て「これは普通じゃない」と判断。すぐに救急車を呼んだのだそうです。父に問いかけられていた記憶は薄っすらあるのですが救急車以後は記憶がまったくありません。救急隊員に白血病のことを話したことがきっかけで成田の病院へドクターヘリで向かったのだそうです。ヘリのことはまったく覚えておらず、後で聞いて驚いたぐらいです。その後多分数日(ちょっと曖昧です)して誰かが肩を揺するので目が覚めました。目の前には先の宮戸へも同行した飯塚俊男監督の顔が。でも自分がどこにいるのかわかりません。やがて白血病でお世話になっている医師の姿で自分が白血病の治療した病棟にいることが分かってきました。そして脳梗塞を起こし意識が無くなっていたことも。ヘリでの搬送後緊急手術で梗塞を起こしている部分に薬剤を注入して梗塞を取除たのだそうです。知らなかった。幸いというのも変ですが、梗塞して組織がダメージを受けた部分は小さくそれほどの大事には至りませんでした。目覚めた当初はふらつきや左半身にしびれのような感覚がありましたが、それも一週間ほどで薄れていき、約一ヶ月後の5月2日に退院できました。麻痺なども残らず普通に歩けましたが、若干左顔面にひつるような痙攣が来ることがあり、それは薬で落ち着いて行きました。
意識がなくなりそれなりに時間も経過していたにも係わらず、ほとんど後遺症らしきものは残らなかったのです。
その後、自主映画などに関わったりして8月からは仕事も再開しました。作品はあの宮戸の震災後の復興を記録する「宮戸復興の記録 2011〜2013」となり由布院映画祭で最高賞をいただきました。
そうやって2013年中頃までは特に問題もなく過ごせていましたが、残酷な神は次の試練を準備していたようです。
舌癌です