大震災 1月-4月・舌癌 治療 療養
Great earthquake January-April・Treatment Recuperation
舌癌闘病記 2013年 診断 治療 11月
2006年急性骨髄性白血病の告知。2007年再発。2008年再々発。抗がん剤や放射線治療後6月に臍帯血(さいたいけつ)移植。血液型も元々はA型でしたが2種混合移植の臍帯血のうちB型のものが生着したので今はB型です。つまり移植した造血幹細胞に置き換わったということになります。もう一つの臍帯血はAがたのものだったらしいです。2010年7月から仕事を再開。
そして2010年に白血病闘病記も終了させました。しかしその後も2012年脳梗塞(入院1ヶ月)、2013年皮膚癌(入院2日間)、2013年舌癌(入院3ヶ月)、2022年心筋梗塞(入院1ヶ月)と病が続きました。
よく生きてているなと不思議なほどです。
東日本大震災など経た2011年4月今度は脳梗塞で一ヶ月ほど入院。幸い大きな後遺症もなく同年中には仕事を再開。白血病の定期検診と脳梗塞の定期検診が始まり2012年は穏やかに過ごせたのですが翌2013年・・・
# 舌癌の記録は、以前so-netブログ(現在SSブログ)に掲載したものをこちらへ移記。再編集・加筆・修正したものです。
2013年11月25日
口腔外科にて舌癌の告知を受ける。「やはり来たか・・・」というのが第一に感じた感想。一年程前から舌の異常には気付いていた。がそれはあきらかに自身で舌を噛んでしまう事がはじまりだった。2011年ちょうどあの大震災から1ヶ月後の4月。脳梗塞でドクターヘリ搬送され急死に一生を得た。被災地へ支援物資を携え訪れた一週間後のことである。幸い経過も良く一ヶ月で退院となったがそれから一年ほどして無意識に自分で自分の舌を噛んでいることに気がつく。最初は違和感程度だったのがあきらかに舌に傷をつけはじめた。すぐに歯医者で原因となりそうな歯を削ってもらい、マウスピースをはめて寝る様にしたがあまり効果はなく。傷は増々深くなっていったようだ。この「ようだ」と書くには理由がある。その傷の場所は舌の付根に近く、自分では見る事ができなかった。そして歯科医も傷本体に気付いてはいなかったと思う。歯医者をあきらめ総合病院の耳鼻咽喉科へ行ってみると確かにへこみがあるようだと触診の後に医師が言った。この時医師は「悪性のものだとは思えない」「がそのまま傷を放置すると癌化することもあるので」口腔外科への受診を勧められる。特に深く考えずに地元の一番近い口腔外科に。そこでも結局「悪性のものには見えない」とのことでその前の耳鼻咽喉科とまったく同じ薬を処方された。口内炎に処方されるその薬だが、まったく効果はなかった。一時回復した時期が数ヶ月あったのだが再び傷みが、今度は以前に増して痛い。地元の口腔外科では癌の可能性を示唆はするのだが、生検(実際に組織を採り調べる検査)をしようとはしなかった。傷みの場所が反射部分で全身麻酔でないと生検できないからだ。全身麻酔となるともう立派な手術になる。そのことに躊躇したのではないかと今は思っている。傷みは限界に近くなり、喋る事もままならなくなり筆談状態となった。私はその煮え切らない医師に見切りをつけ、以前白血病と脳梗塞で入院経験のある総合病院の口腔外科へ変えたい旨を医師に告げ紹介状を書いてもらうことに。すぐにその病院を受診すると初回は以前と同じ診たてだった。処方された薬もまったく同じ。しかし二回目に訪れた際に医師が突然局所麻酔で舌を強引に引張り出し患部を見て驚いたようだ。そのとき写真を撮り私も見せてもらったのだが、本当に刃物でバサッと切ったような傷ができている。見るからに痛々しい傷。そして医師はその傷を縫うと言い出した。そう局所麻酔でだ。それまでの医師が躊躇していた局所麻酔での施術だ。私もいい加減この傷みにはうんざりしていたので、それを承諾。舌に直接麻酔注射されるという想像を絶する傷みに耐え(その瞬間思わず腰が浮いた)数針縫われた。その時に生検用の組織も採取されていた。今回の舌癌発見につながる最大の山だった言ってもいいかもしれない。一週間後、再び検診に訪れると何だか少し空気が重いのを感じた。一瞬のことではあるが入り口ですれ違った医師が目を合わさないのだ。前回縫ってもらってまだ少々痛みはあったもののすこぶる調子が良くなったことを報告すると、医師がそれには反応せず「あのですね、落ち着いて聞いてほしいのですが・・・」もうこの言葉を聞いた瞬間に次の展開はほぼ読めていた。案の定舌癌を宣告されてしまうことに。以前の白血病の時もそうだったが頭の中が一瞬真っ白になる・・・この真っ白というのは、思考が前に進まない、次の展開へ移行しない停止状態。こうして私の舌癌との戦いがスタートした訳です。
舌癌闘病記 2013年 診断 治療 12月
2013年12月19日
自宅からバスとタクシーを乗り継ぎ、一人荷物を持ち千葉大学医学部付属病院の前に。この日を向かえるにあたっては少々紆余曲折があった。当初、病院側スケジュールの都合で年明け1月末の入院となっていたのだが、これまた病院側の都合で年内となった。まだ一ヶ月以上あると考えていたのでかなり慌てた。抱えていた編集仕事も当初の予定なら何とかなると考えていたのが、急遽突貫工事で荒く仕上げたものを納品せざるえなくなった。そしてそれらを片付け何とかこの日を向かえるに至った。荷物は中ぐらいのデイバッグにノートパソコンを納めたビジネスバッグが一つづつ。一人で持てる限界だろうか。天気は傘をさすほどではほどではないけれど空は完全に雨雲が低くたれ込めている。入院の日に相応しい天気なのか相応しくないのか。これからどのくらいの期間ここで過ごすことになるのやら。希望していた無料の4人部屋ではなく差額代の発生する4人部屋へ入れられたのはちょっとハプニングだが空いてないのだから仕方ない。履物やバスタオルなどの大物を売店で購入しひとまず落ち着く。MRI撮影を済ませ口腔外科診察、特にあらたな異常などもなく25日の手術へ向かうこととなる。25日、クリスマスの当日。何と言うクリスマスプレゼントであろうか。まだ分からないが、「命」のプレゼントとなるわけである。
12月25日
手術当日、朝8時過ぎに手術室へ入る。氏名や病気の部分などを確認の意味も含めて聞かれすぐ手術台へ、麻酔が準備され「1、2、3・・・」ぐらいで意識はなくなったようだ。10時間後。一瞬記憶が戻ったのがICUを立ち去る兄の姿だったように記憶している。翌日26日の午前中、あらゆる装置につながれた自分がICUにいることがはっきりと認識できた。昼過ぎには抜菅され、病室へ戻ってきた。個室である。後で聞いたが12時間以上の手術だったそうだ。今回受けた手術とは胸三角筋皮弁を使った再建術。と言っても素人にはチンプンカンプンであろう。要するに、切除した舌の部分を補うために胸の筋肉を一時的に取り出し、引っぱり上げる形であご舌から舌の再健部へ導き縫合。胸の筋肉が外に露出した形数週間過ごさなければならず。この皮弁がくっついたことを確認してから再度手術にてこの皮弁を切り離す手術を受ける。つまり後一回は手術を受けなければならないわけだ。
舌癌闘病記 2014年 治療 1月・
・・と 父の急逝
2014年1月3日
術後、一週間と少し経っている。普段動かなければ痛みや不具合もないのだが、寝返りや首を極端に右に向けることができない。寝ていてもそうなので結構体がしんどい。それと毎朝取り替える患部のガーゼが張り付いてしまい、毎回患部から剥がす際に痛みをともなうこと。そしてもちろんではあるが後遺症もかなり残ると思われること。それから覆う部分が比較的動く部分なのですぐに患部が露出してしまうこと。自分はいいが知らない人が見たら驚くだろう。なんせ顎の下から幅5〜6センチの筋肉がぶら下がっているのだから。ホラーですよこれは。
2014年1月6日
手術後、順調に過ごしている。とは言うものの、飲食は全て胃への径管流入。顎も自由には動かせないし、それにともない腕も自由には動かない。マイケルのスリラーに出てくるゾンビを想像していただくのが一番イメージし易いかもしれない。口の中は切除し再建した舌が大きく盛り上がるように膨らんでいて会話はできない。できても「アー、ウー」だ。何日に一度タオルの洗濯ぐらいでできることと言えばこのパソコンをいじることとテレビをボンヤリながめていることぐらい。手が自由にならないと読書も辛い。朝パソコンを起ち上げ、メールのチェック(ほぼメルマガや宣伝のみだが)。朝の径管飲食と抗生剤の点滴。テレビで興味を引くものがあればボーっと過ごし、昼の径管飲食。午後はテレビまたは持ち込んだDVD。パソコンいじりで過ごし、夜の径管飲食と抗生剤の点滴。その後はまたテレビかパソコン。9時に消灯。消灯後までテレビを見るようなことはまずない。23時に抗生剤の点滴があり、朝までは就寝。朝は大概5時台には目が覚めてしまう。以前の白血病の時のように読書三昧や映画(DVD)三昧という訳には今回はいっていない。充実感とはほど遠い日々の繰り返し・・・これが今の日常である。
2014年1月8日
午後から冷たい雨の降る寒い日。父が死んだ。風呂場での孤独死。私が舌癌の治療の真っ最中に・・・兄から夕方5時半頃電話があり、 デイサービスから戻った母を出迎えず応答がないとのこと。そのときすぐに風呂が思い浮かんだ。そしてジリジリと連絡を待ち続けたが入院中の身では待つことしかできない。8時を過ぎても連絡はない。今手術の影響で喋ることができないが、8時半に兄の携帯に電話を。兄嫁が電話に出た。口ごもる。兄を呼ぶ声が電話から遠ざかる。ふいに母がでる。そして「昭典・・昭典・お父さんいないよ。」一瞬、行方不明なのかと思う。「昭典・・昭典・・お父さん死んだよ」「・・そう・・・・・・大丈夫お母さんは大丈夫・・」と問いかけるが聞こえなかったようだ。やっと兄が電話に、風呂場の浴槽で亡くなっていたそうだ・・・兄も泣いている。
結局、兄は鍵で開けることを断念し警察へ電話。ガラスをやぶって中に入ってもらい風呂場の父を発見したようだ。父はデイサービスに母を送り出した後、10時頃には風呂に入ったのだと思う。
この水曜日の危険性はわかっていたのだ。母の送り出し以後7時間あまり父が独りになる時間ができること。もし私が入院などせずに居れば、水曜日は母を送り出した後に父と一週間分の食料の買い出しへ出かけていたはずだ。それが普段の習慣だった。そして帰り中華そばやでラーメンを食べて帰宅する。メニューを見てもよく見えないせいか「またいつもの塩ラーメン?」と注文を聞いた時の少し照れたような父の笑顔・・・もし私が入院などしなければ少なくても1月は過ごすことができたのではないか・・・・当初の入院予定は1月末だったのだから・・・まさに最悪の結果になってしまった。危険性を知りながら放置した後悔と父への申し訳なさで一杯で・・・
今はただただ直接謝りたい。兄からは警察の検死と葬儀屋が混んでいるのとで葬儀は来週末となりそうとの連絡がありました。幸いというか、本日(11日)に短時間の外出の許可が主治医より正式にでました。もちろん現在皮弁が露出した状態なので積極的な許可ではありません。他の理由では許可にはならないはずで特別な措置です。
2014年1月15日
父の訃報を聞き、情報の少なさに苛立ちながら、当初は葬儀へ参加する方向で医師へ外出許可を出していた。数日して許可自体は下りたのだが、医師から「感染リスクがあり、最悪の場合は予定されている2回目の手術ができなくなってしまうこともあり得る」との説明。「自己責任で」と釘を刺された。確かに父へは直接会って詫びたい気持ちはあふれそうにあるのだが、冷静になって考えると私にはまだ母がいるのだということに気づく。今はデイサービスで利用していた施設に特別扱いでお世話になっている母。この母を一日も早く退院し迎えに行ってやることが最優先ではないのか・・・そのためには、体調を万全にしておく必要があり、感染リスクは極力避けたい。考えてみれば、今無菌室にいるわけでもなく見舞い客も自由に出入りし外来へも検査と称して行かされている現状なのだから病院にいたって感染リスクがなくなる訳でもないが外よりは少しはましだろう。父もきっと分かってくれると信じたい。父へは手紙を託すことにする。孤独死させてしまったことへの謝罪と母のこと心配しないように、そして感謝。伝わると信じて・・・
16日が通夜。17日が告別式・出棺。
さようならお父さん。本当にありがとう。
2014年1月26日
明日27日に第2回の手術が行われます。皮弁の切り離しと舌の整形。これがうまくいけば、後はひたすら飲食のリハビリ。問題なく終わってくれることをひたすら祈るのみである。兄からの報告では、母は施設をたらい回しの状態のようだ。つくづく居住地(四街道市)の福祉の弱さを痛感する。
2014年1月29日
皮弁切り離し手術が終わった。12時〜5時までの5時間。手術室で抜管されそのまま病室のベットへ。心電図モニターや酸素飽和度モニター、足にはエコノミー症候群防止のエアーポンプ、腕には点滴とコード管だらけで身動きがとれない。次の日の朝までこの状態で過ごす。寝返りもままならず一睡もできず。朝になり点滴以外の装置は外され、歩行テストも問題なしで立ち上がり歩くことができるようになった。術後の舌の状態は何だか口一杯に舌が充満している感じで、今は違和感ありまくり。手術室の乾燥のせいか唇がカピカピで痛い。胸も皮弁切り離し後の筋肉を戻して整形してあり、今はどちらかというとこちらの方が痛みが多少ある。これからはリハビリ。辛いものになるかもしれない・・・
舌癌闘病記 2014年 治療 2月
2014年2月1日
今日から2月。昨年12月19日に入院してから44日、一ヶ月半が経過した。人生初めての全身麻酔外科手術をこの間2度経験したせいか自分では時間の経過が早かったなと感じる。今は術後ずっとつけられていた点滴のラインも外れ傷の経過を見ている時期でリハビリ等もまだ始まってはいない。ある意味一番退屈な時かもしれない。舌の膨満感も少しづつ引いてきている様に感じる。今後の不安としては飲食がどこまで復活できるか。飲の方は現在でも唾を飲み込むことができているのでそれほど不安はないのだが、食の方は不安が一杯である。第1回の手術後ずっと径管栄養で胃に直接管で流し込む形で口からは一切接種していない、というかできない状況が続いていた。第2回手術で皮弁を切り離し、一応全ての外科的な措置は終えた訳だが現在の舌の感覚は健康なときとは比べ物にならないくらい動かないからだ。まだ術後一週間も経っていないので今後も変化はあるのかもしれないが、もし今の状態で落ち着くのであれば固形物を食べるのはかなり厳しいと感じる。まだ不安の域ではあるが今後の経過を待つしか道はない。
2014年2月7日
火曜日から見守り(医師の立ち会い)のもと第一段階のうがいの練習、翌日にはこの一ヶ月半ずっとつけられていた手術あとのガーゼも全てなくなりました。言葉もた行の発音がまるでできない。元々滑舌は良い方ではなかったが今は永六輔を数段滑舌悪くしたぐらいだろうか。「しぇき ごえ のろ に あさらあめ」といった調子である。医師は今後た行の発音もできるようになると言っていたが果たして・・・いや医師を信じよう。以前の白血病の時もそうだったが、このクラスの病になると私なんかの知識ではどうにもならない。すべて医師を信頼して全ておまかせするというのが私の病への臨み方だ。だからどんなに辛い検査でも拒まない。
今いる病棟は、口腔外科と脳外科の患者が半々収容されている。私がいるのは4人部屋。脳外科の入院患者はほとんどがカテーテル治療の人が多くそのほとんどが一週間ほどで退院してしまいます。そうそう脳外科の人に共通するのは全員いびきがすごいこと。耳栓しなけりゃとてもじゃないが寝られない。いびきと脳は何か関係があるのだろうな。
今月22日が父の四十九日と納骨となった。医師からは既に外出許可は出ているが、問題は径管だ。この鼻から栄養を送っている管を何とか抜きたいのだが22日までに口からある程度の摂取ができるようになっていなければそれも難しい。朝外して外出、帰ってからふたたび装管でもいいのだが、できればスッキリして出かけたい。まぁこれも焦ってもしかたない、ゆっくり前進していくしかないと思っています。
2014年2月9日
病院暮らしも山を越えると途端に退屈が支配し始めます。白血病の時には一日一冊ペースで読んでいた本ですが、今回はまったくと言っていいほど読む気力が出ません。老眼も関係しているかもしれませんが、興味がまったく湧いてこないと言う方が近いかな。検査や診察の予定もない日は一日横になりただボーッとしているか、思い出したようにDVDを観てみたり、絵コンテのようなものを書きかけてはすぐやめてみたり・・・充実感とは無縁な怠惰な日々のくりかえしです。まぁ病院で充実感もないだろうけれど、「あぁ、また無為な一日を過ごしてしまったな・・・」という後悔すらしなくなっている自分に気がついた時には少々焦ります。
2014年2月11日
昨日より経口飲水がはじまりました。昨年12月25日以来ですから約1ヶ月半ぶりの口から摂取となります。まだまだ少しづつですが、経口に問題はありません。もちろん舌の半分は移植した筋肉なので神経はありませんし味覚もありません。残った半分でそれをコントロールする”コツ”を体得していくことが今後の課題になります。しかし飲水がすんなりいったことで弾みになりこのあとの食物摂取もうまくいってくれるといいのだが。22日父の四十九日までに退院することも夢ではないかもしれない。
写真は現在の病室から見える景色。病院自体が丘の上にあり、さらに病室が9階なので眺めは良い。
2014年2月18日
昨日からやっと栄養の経口摂取リハビリがスタートしました。最初に出てきたのは小さなプリン。慎重に食べたせいもありますが10分ぐらいで完食することができました。続いてゼリー。こちらは5分程度で完食。両方とも特にむせるようなこともなく食べきることができました。これに調子ずいて独断でアイスクリームを買ってきて食べてみたのですが、これには思いのほか苦戦しました。普通のハーゲンダッツカップなのですが食べきるまで40分ぐらいかかってしまいました。プリンと違い舌の上で融かす作業が思ったより難しい。舌の半分以上がただの筋肉で、それを残った部分でコントロールしようとするのが・・・あらためてその難しさを知りました。今後の様々な手間を考えると一般と同じ食事を摂れるようになることが目標ですが、苦戦が予想されそうです。
2014年2月21日
昨日朝食より一段階進んで、流動食へステップアップしました。重湯+スープ(ミソやコンソメ・コーンなど)+牛乳系のドリンクという構成です。この中で苦戦したのがドリンクでした。付属しているストローがまったく吸えないのです。吸っても吸っても液体を吸い上げることができません。これには少々焦りました。ストローを使わずに飲めば問題はないのですが、これもリハビリと試行錯誤した結果2回目の食事の時にはコツを発見、飲めるようになりました。ストローの口への差し込みを少なく(ちょうど前歯の裏あたり)して吸うことで解決しました。しかしながらこの病気になる前には意識もしなかった舌が果たす役割の大きさにあらためて気づかされます。
2014年2月23日
金曜日に流動食へ進んで次の日には今まで径管で胃に直接流し込んでいた栄養も口から飲むように変更されました。口からの栄養となったことでひとつ苦労するのがその量です。流動食は重湯やスープ・牛乳などの文字通り流動食でこれらは言わば水なのですが、これに栄養も液体状なのでその全体量が1リットルぐらいになるのです。これを飲むのが一苦労なのです。短時間に1リットルの水を流し込むわけですから・・・これはちょっときつい。飲み終わった後は意識が若干遠のく(笑)ぐらいです。それから薬も今までは全て水に溶いて径管から注入していたのですが、こちらも普通の錠剤を口から投与する方法に変更になりました。つまり径管をまったく使用しなくなったわけです。そして土曜日、径管が外されました。第1回目手術の昨年12月25日以来約2ヶ月、ずっと鼻と頬にテープでとめられていた邪魔なものがなくなりました。顔をまともに洗うこともままならなかったこの管とおさらばしました。あ~なんてスッキリしたことでしょう!さぁいよいよ来週から固形物経口摂取の段階へ進みそうです。何だかリハビリに加速度ついてきました。
2014年2月25日
昨日月曜日から「えん下Ⅰ」食になりました。内容はおかゆ、柔らかいおかず(里芋の煮物等)、リーナレン(栄養ドリンク)、デザート(プリンやヨーグルト)。この後「えん下Ⅱ」「えん下Ⅲ」とステップアップしていくものと思われます。手術前と同じとは言い難いですが、完食することはできています。しかし食べるものに形が出てくるにつけ舌の存在には大きな役割があったことを実感します。後遺症がまったく残らないなんてことは当初から期待してはいませんが、最終的には仕事柄外食できるところまで持って行きたいというのが希望ではありますが果たしてそれがかなうかどうか・・・微妙です。おそらく口の中に頬張るなんてことはもうできないでしょう。舞妓さんのように小さなお口で少しづつというのが限界かもしれません(笑)同室の人の中には私と同じ状況を追いかけている人で不平ばかり口にして病気との戦いに積極性を失っている人もいますが、まぁ命があるだけで感謝せねば。
2014年2月26日
退院決まりました!昨日トントン拍子に「えん下Ⅰ」から「えん下Ⅱ」へ昇格。そしてこれを掲載した本日も次のステップへへ昇格しているはずです。ここで思いがけず、退院の話が浮上。具体的には、今週末か来週早々には退院することが決まりました。えっまだ「えん下Ⅱ」なのに大丈夫か?とも思うのだが、どうも「こいつなら今放り出しても雑草のように生きていける」と思われているようだ(笑)ということで退院決定ということだけここでお伝えさせていただき、具体的な日取りはまた後日ご報告します。
2014年2月28日
日曜日3月2日午前に退院することが決まりました。本当は1日土曜日でも良いのですが、あえて自らの意思で一日延ばしました。理由は、木曜日の段階で食事が「えん下Ⅲ」まで来ていて、ここまでくれば本来退院なのだそうです。
しかし食事には後2段階「一般の全粥」と「一般」があって、医師からは「一般」は苦労するだろうと言われています。そこをあえて経験と言いますかチャレンジしてから退院したいと考えて一日延ばしました。本日金曜日が「一般の全粥」で明日土曜日に「一般」。社会生活や仕事での外食等のことを考えると「一般」までたどり着いていたほうが良いことは分かっていますが、それがどの程度困難なことなのか病院にいるうちに体験しておこうというのが狙いです。
木曜日には栄養指導というものもありましたが、えん下食を参考に料理本(シニアの健康ごはん)等を使いこちらからこんな食事ではと提案すると、これで良いとのこと。一般の料理本にあるメニューで一般の人を対象にしたものなので作る方としても材料を細かく刻むなどの対処でさほど苦労せずこなしていけると思う。
2ヶ月半の入院生活は個人の経験から言えば短いものでしたが、人生初の10時間以上に及ぶ外科手術や父の死などもありとても感慨深いものになりました。退院後誰もいない家にとりあえず帰ることになりますが、母のことやあれこれの問題に向き合わなければなりません、落ち着きましたらまたこちらでご報告をさせていただきます。
舌癌闘病記 2014年 治療 4月〜
2014年4月29日
とりたててご報告するようなこともない日常を送っています。退院後施設にいる母をたずね、3月末には退所させ、今母と二人の生活を送っています。要介護3の母の世話をしながら毎日の食事、買い物、洗濯、掃除・・・
退院当初は移植した筋肉が口の中一杯にあふれるような感覚があったのですが、今は小さくなりほとんど違和感を感じないレベルまできています、食べにくさは多少ありますが食事もほとんど制限なく食べられています。
言葉はやはり「あめ玉をしゃぶりながら」話しているレベルで滑舌は悪いです。今は下のコントロールが少々怪しくなってきた母の排泄物との格闘の日々です(笑)しかし、こうして母の下の世話をしていてふとデジャビューのような感覚になることがあります。「あぁ、50数年前私もこうして母に世話になっていたんだな」と・・・そう考えると少々の失敗も怒れなくなります(笑)退院後家に帰るとデスクトップパソコンの調子が悪く、母を引き取るまでの数週間原因究明に没頭していたせいなのか肩が凝ります。ひどくなると背中まで。背中の痛みで検索すると「膵臓がん」がヒットするので少々暗澹たる気分になったこともありましたが、風呂に入ったり、軽いストレッチで軽減するので整形外科を受診すると、首の筋肉が強ばっていて頸骨も若干まっすぐな状態(ストレートネック)だと診断されました。飲み薬と湿布、そして椅子を思い切って新調して今はいくらか楽な状態です。でもこうしてパソコンには向かってしまうのですが(笑)
2014年6月17日
私の舌癌入院中に起きた父の孤独死から4ヶ月。
退院後施設から寝たきりの母を引き取り2人で暮らし始めて1ヶ月半。食事の支度、排泄の世話、着替え、掃除、洗濯、買い物・・・
ようやく日々の介護生活にも慣れてきました。そんなある日、父の衣服を整理しておこうと思い立ち愛用していたジャンバーのポケットに何気なく手を入れると一枚のレシートが出てきました・・・よく見ると日付は「2014/1/8」・・・それは父が亡くなった当日の日付。
この日はお昼過ぎから雨が降り出す寒い日でした。私も病室の窓から見た暗い雲の光景を今でも覚えています。
あのどこか不安な光景・・・
刻印された時間は午前11:16分。まだ雨は降りだしていない寒さの中、少々ふらつく危ない感じで自転車を漕ぐ父の姿が眼に浮かびます。それはおそらく死を迎える1〜2時間前だったのではないでしょうか。
この日父はいつものように朝ゴミ出しをして(ご近所の方が目撃していたことを後で聞かされました)、母をデイサービスに送り出し、買い物をし、一人で昼食(おそらくレシートにある第一パン一口包み)を食べ、一休みした後に風呂に入ったのでしょう。そして浴槽の中で静かに心臓が鼓動を打つのをやめてしまった・・・今まで想像でしかなかった父の行動がこのレシートからハッキリと見えてきたのです。
後に母から聞いた話では食卓の上にはお弁当が並べられていたとのこと、それが母の好きだった生姜あさりご飯と自分は和風弁当だったことがレシートから分かります。父は母がデイサービスから戻った後に二人でこれを食べるつもりだったのです。
父はまさに死の瞬間まで家族を思い確かに生きていたのです。このたった1枚のレシートで父に再会することができました。葬式にも四十九日にも出られなかった私が・・・
本当に本当にありがとう、あなたは凄い人です!
以下は、ブログ時代に掲載していた文です
当ブログ、舌癌に関する話題へのアクセスが多いようです。
やはり同じ病の方達が検索でやってくるからなのでしょう。私も同じように調べまくりましたからよくわかります。不安を抱えている方、すでに病と闘っている方、様々だと思います。
このブログも長い間更新を怠ってしまったのでこの辺で「その後」のその後を報告をしたいと思います。
舌癌の経過はすこぶる順調です。退院後3ヶ月に一度診察、半年に一度造影CTというペースでした。しかもその間にただ診察というのももったいないということで虫歯の治療までしていただきました。大学病院の口腔外科で虫歯まで治療してくれるなんてずいぶんと贅沢な話です(笑)その診察も2016年11月のCT後は一年に一度で良いことになりました。次回は2017年11月の予定です。発症は2013年、退院が2014年3月ですから間もなく3年が経とうとしています。葉も耳のとおい老人(例えば87歳の母など)には少し聞き取り辛いこともあるようですが一般人には問題なく通じます。「滑舌の悪い人だなぁ」「昼間から飲んでのか?」ぐらいの印象ではないでしょうか。
食べる方も特に食べられないものもなく以前と変わらない食事をしています。外食でも何の不安もありません。ただ一部上あごに張り付いてしまうような食べ物は苦労することがあります。例えば薄いハム等のような。健康な時のように自在に舌を動かすことは難しく、舌で移動させることが困難なときは行儀は悪いですが箸を口に突っ込んで移動させています。ほとんどありませんが。
それから移植した半分の舌は肩の筋肉で神経がありませんので魚の骨や極端に熱いものなどには注意が必要ということぐらいでしょうか。2013年の舌癌の前2006年に白血病にもなっています。こちらは未だ3ヶ月に一度血液検査と検診を受け続けています。こちらも問題があるわけではなく、おそらく私から申し出れば診察回数を減らすことは可能だと思いますが、病歴が病歴なので安心の為にそのままにしています。現在は介護メインの生活ですが自宅作業の映像編集仕事、以前からの撮影仕事も続けていますがこちらはシングル介護でどうしても母をショートステイに預けなければなりませんので少しセーブしています。ということで生活に困るようなことも今はありません。
思えば命を落としてもおかしくない病にかかりながら今もこうして生きているのです。そのおかげで様々な新しいチャレンジも出来ていることを考えるとあらためて医学に感謝です。